2か月に一度、一週間くらいの在宅勤務が回ってくる仕事をしている。
仕事を終えて、社用のPCを片付けるともうここからは自分の時間。
れいによってぬるい湯船に浸かりながら読んでいるのは片桐はいり『グアテマラの弟』。
誠実だけれど軽やかに語られる、家族のこと、昔話。それに、タイトルがいい。なんか、『イパネマの娘』っぽくて。
さて、このように(2024年10月現在45歳)独身でノソノソ過ごしていると、よく言われるのが冒頭のこのようなセリフである(嘘。正直あまりもう言われない)。そこで自分と同じ属性の(【アラフォー独女】というやつ?)一般の女性(あるいは男性)たちの日常をSNSなりフィクションなりで眺めると、わりと高確率で彼らはこう言っている。
「さみしくない。ほんとにひとりが好きなんです」。
果たしてほんとうにほんとだろうか、とわたしは思うのだ。
だって、わたしはいつだってさみしい。
遊びに出かけている時も、気になっていたラーメン屋に並んでいる時も、飛行機の搭乗手続きを待っている時も、切れた蛍光灯を替える時も、年末年始も。
何なら、誰かと一緒に過ごす時も。いつだってどこでだって、そこはかとなくうっすらさみしい。
ただ、ある時からそのさみしさをどうにかしようとは思わなくなった。
江國香織『ウェハースの椅子』で、主人公の女性画家は「ぜつぼう(=絶望)」をともだちだと言った。あたりまえのように傍らにあってふいに寄り添いこそすれ、けっして彼女を苦しめたりはしない。
わたしにとっての「さみしさ」もおそらくそのようなものだと思う。
さみしくたって、いいじゃないか。
ぜったいに引き剥がさなければならないような、遠ざけておかなければならない感情、ではない。
「さみしくないの?」
そのように不躾に大味に聞かれたら、たぶん相手は「さみしくない。充実している」というような答えを待つだろう。
でも、そこで「そらさみしいさ」と答えるのもなんか、違う。それだとひとりで過ごす毎日の充実感や、秘密めいた楽しみの詰め合わさったきらめきは伝えられず置いてけぼりにされてしまう。
さみしいところが、いいのだ。
いつのまにかスーパーには栗やかぼちゃのお菓子が並びはじめている。気がついたら陽も余韻なく落ちる。
好きなものだけを偏愛的に詰め込んだ部屋で、ゆっくり季節が変わっていく。ハイボールの味も、夜のにおいも。
そしてさみしさも。
好きなものだけを偏愛する権利が、少なくともわたしにはある。
それは、おそらくは誰にでもあるものなのだ。
きょうの本
片桐 はいり:『グアテマラの弟』
実際にグアテマラに在住する年子の弟についてが語られている日常エッセイ。
グアテマラに永住している弟さんの元で休暇を過ごす異国の様子も興味深い。
片桐さんは文筆家でもあるんですね。日常のちょっとした感嘆とか、異国の身近ではないものの比喩とか、表現力すばらしい。文章そのもののリズムも心地よい。
言うまでもなく片桐はいりさんのことはこれを読む以前から大好きです。普段あまりテレビを観ないほうですが、情熱大陸もしっかり観た派です。
江國 香織:『ウェハースの椅子』
独身の中年女性画家の日常。「こわれやすいもの」という意味合いのタイトルらしい。
彼女の生活はとても満ち足りているようでいちいちあやしく、危険な香りがする。
奔放な妹と妻帯者の恋人、妹の「うんと年下」の学生の恋人。登場人物がいずれもどことなく狂気じみている。
これをはじめて読んだのはまだ20歳そこそこの時だった記憶だけれど、ぶわっと惹かれる感じがあった。ほんの少しだけイラッとする感じが(女史の小説にはおしなべて)あるのだけど、そこがまたいいのだ。


