自分を好きになれるかについて

暮らし

週末には映画を1本は観る、というのを自分の理想のひとつとしている。
昼間に部屋を暗くして映画を観るというのも倒錯的で捨て難いけれど、だいたいは夜に。
昨晩はNetflixで『ペドロ・パラモ』。じつは原作の文庫本を持っているが、読んでいない。Netflixの新着に上がってきた時、そのことをあっと思い出して少し恥ずかしくなった。そんなわけで埋め合わせをするような気持ちで今週の1本に選んだのだ。

こんやは蕪をアンチョビペーストで炒ったものとチーズをアテに、バドワイザーゼロを飲む。読んでいる本は、坂上泉:『インビジブル』。再読だけど、いい具合にほどよく内容を忘れている。再読はもっと見直したい習慣。次々足跡をつけたい一心で新しいものを手に取りがちだけれど、たいていはこんなふうに忘れてしまっていたりする。

わたしは45歳なんだけれど、たぶんものすごく、なんというか幼い。
というか未熟だと思う。
結婚していないし、する予定もない。婚活もしない。
猫もたぶん飼わない。
「もうええわ、来世に期待」と、思っているけれど。

それでも自分を好きでいなければならない。
幼くて未熟で、婚活しないし猫も飼わないけれど。

時々自分を棚卸しする。自分の理想は何なのか。それは本心か。

はじめからひとり好きだったのか、あるいは好きだと思わざるを得なかったのか、もともとどうだったのはもう思い出せないけれど(子どもの時からひとりでリリアンなぞをしている時がいちばん幸せだった思い出と、ひとりで留守番はかなり大きくなるまでできなかった記憶と両方ある)、いずれにしてもひとりでいる時以外は芯から安らがなかった自分を、ある時認めなければならなかった。そして「べつにそれでいいんだ」と思った時、ずいぶん楽になった。

そして、こうしてひとりで居続ける暮らしを選んでいる。

エックハルト・トール『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』には、こんな意味合いのことが記されている。
「自分を認めて、愛して、愛せないとしたらその愛せない気持ちも丸ごと認める。そうした先に真の安らぎがある」と。

もうここから先はひたすら理想どおりでいいのだ。手のひらに持てるだけの理想、ではあるにせよ、少なくとも「べつにそれでいいんだ」と思う以前に感じてた息苦しさ、恥ずかしさ、後ろめたさ、のような荷物は持たなくていい。

そして、本当の本音を言うとすれば、その荷物は完全になくなってはいない。
45歳になり、幼くて未熟で、結婚してないし、婚活しないし猫も飼わないことがさみしいし、後ろめたいし、恥ずかしい。
それらはずっと、うっすらあり続ける。

だけどもう、わかるのだ。完全なんかじゃなくていい。うっすらあり続けるということを懸命に否定することは安らぎとは対極だということ。そこから解放されさえすれば恥ずかしさもさみしさも、未熟さも何でもないのだ。


そう思うと、自分はなんかこうけっこういいんじゃないかと思ったりする。

きょうの本

坂上泉:『インビジブル』
戦後の大阪を舞台にした警察小説。ある連続殺人事件と疑われる変死体が次々を発見されて、警備部から出向し捜査に乗り出したエリートと主人公の若手刑事が即席の相棒となり、徐々に打ち解けていく。四角四面のエリートとたたき上げの若手という絵に描いたような凸凹コンビがちょっとあのテレビドラマっぽくはあれど、時代描写が非常に丁寧で読みごたえがある。ミステリー好きに響く疾走感と緊張感、構成もひとひねりある良作。
作者が1990年生まれと聞いてびっくりしてしまった。でも考えたら、1990年生まれってもうかなり大人だよな、と指を折りまたびっくり。

エックハルト・トール:『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』
スピリチュアルとタイトルにあって少々手に取りづらい感じがあるものの、いかがわしい本ではない。ざっくり感想を言うとしたら「すごいいい本」。心をチューニングな読後感。
とはいえ、「よくわかんなかった」と感じる章もある。ある時がくればわかるのかもしれない(と、本にもそのようなことが書かれていた。わからなければその時点で放置していい、時間が経って再読した際感じ方が変わっているかも、と)。
実を言うと、もう概ね満足したと思って売ってしまったんだけど(こういう本は役目を終えたら、次のひとに回してやりたいと考えたのだ)また読みたくなっている。手元に置いておけばよかったかもしれない。

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